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青年の像

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「青年の像」よみがえる

 先ごろ解散した陶芸家集団「走泥社」の創立会員で現代陶芸の有力作家、鈴木治氏が1964年に制作し伊丹市立文化会館広場に設置されていた 彫刻モニュメント「青年の像」が修復を終え、このほど”いたみホール” の愛称で全面改築された文化会館の東入口通用路の一角に再設置されて、訪れる人の目を引いている。
 鈴木氏の野外モニュメントは少なく、これだけ大きなスケールのものは唯一の例。伊丹市の青年会議所の依頼で制作した当時、大きな窯はなく信楽の試験場の窯を借りて制作した。「新しい明日に向かって立つ群像の強い力と豊かな心の心象を土に託した」 という作品は長年のあいだにヒビが入ったり一部欠けたりしていたため、陶芸家、藤野昭氏が修復を担当。阪急の新伊丹駅が開業するなど伊丹市の復興とも呼応するかのようなリニューアル。

1998年(平成10年)11月28日土曜日
京都新聞朝刊より
青年の像の画像
 「走泥社」後の鈴木治、新たな創造半ばの死

 八木一夫と共に戦後のモダニズム陶芸のけん引車的役割を果たし続けた陶芸家、鈴木治が亡くなった。実用を離れた彼らの作品は「オブジェ焼き」などと呼ばれたが、鈴木は「オブジェ」という言葉が嫌いだった。魂のこもらない出来合いの置物を指すような語感が嫌だったのだろうか。陶芸の原点ともいえる土へのこだわりから、自らの作品を「森羅万象」の象をとって 「泥象(でいしょう)」と名付けていた。
 1948年7月、八木、鈴木、山田光など5人で「走泥社」を結成した。「走泥」は、中国・清代の陶芸の書『飲流斎説瓷』の中の 「蚯蚓走泥(ミミズが泥の上を歩む)」が出典という。当初は中国や朝鮮の古陶磁に強い影響を受け、なかなか古典の呪縛から抜けられなかった。
 どんな作品でも、口を開けた器である限り表現に限界のあることに気付いた鈴木は、1954年ごろ、初めて壷の口を閉めてしまった。器であることを拒否し、用途を否定したこの表現が、近代陶芸史上、画期的な意味を持っていた。アメリカの陶芸家、ピーター・ヴォーコスが 「抽象表現主義陶芸」を世に送り出したのもちょうど同じころのことだった。
 破壊と創造に明け暮れた「走泥社」の活動は、50年間で幕を閉じた。八木亡き後、グループの中軸として先頭に立ち続けてきた鈴木は、ようやく肩の荷をおろし、自分の回顧展を実現(1999年)、新たな創造の一歩を踏み出し始めた。その直後の74歳の死だった。

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