2026年3月閉館
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)
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AI・HALLプロデュースvol.3「岸田國士戯曲SHOW」津村卓

アイホールの自主事業の中心的な存在になってきたアイホールプロデュース。今回で3作目となる。1作目の「砂と星のあいだに」で本を担当してくれた北村想さんの演出の世界を描きたいと想さんにお願いすると「自分の本以外は演出しない」ということであった。佳梯かこさんに相談しながら話を進めて行くと想さんから「岸田國士の本だったらやろうか」という返事を頂いた。 岸田國士とは、演劇ファンでも白水社が設定している岸田戯曲賞ぐらいでしかお名前を聞くことがないと思うが、文学座を設立した日本の新劇界創成期を代表する作家である。岸田衿子(詩人)、岸田今日子(女優)の父君としても知られる。この時は、プロジェクト・ナビも愛知芸術文化センターの杮落としの企画が進行中であり、それじゃあということでプロジェクト・ナビとの共同作業が始まった。想さんから、数多い岸田作品の中から「命を弄ぶ男ふたり」、「運を主義にまかす男」そして「紙風船」をやるということが提案された。役者はナビを中心に名古屋の多田木亮祐さんとブリキの自発団主宰の劇作家・生田萬さんにお願いした。生田さんに、このプロデュース公演の話でお会いした時、生田さんはてっきりブリキの自発団の役者の誰かを使いたいというお願いと思っていたようで、「生田さん、役者でお願いしたいんですけど」と言うと、顔がほころんだような気がした。そして、「わかりました」と快く返事をいただいた。佳梯かこさんの相手役には、現在は舞台よりも映画で活躍している趙方豪さんにお願いした。矢崎仁司監督「三月のライオン」で好演の他、数多くの映画に出演しているが、かつては満開座の看板役者としてならし、「ガキ帝国」(井筒和幸監督)で映画の世界に進んだ魅力あふれる役者である。趙さんには「オレでええんですか? 想さんとは一度ご一緒したかったんです」という返事をいただいた。

稽古は名古屋のプロジェクト・ナビの稽古場で始まった。読み合わせが進み、それぞれが自分の配役の人物等を解釈して行く作業が続く。一旦稽古が中断され、約3週間の空白ができる。生田さんは「稽古をしよう」と訴え、コンビを組む小林正和が東京へ行き約10 日間の自主稽古を行った。生田さんがほんとうに楽しそうに取り組んでくれ、それを見るのが面白くて仕方がなかった。ただ、本番が始まるころには、ブリキの自発団の次回公演のシノプシスや企画とかで自分の出番のない時はいつもワープロとにらめっこをしていた。それは作家・生田萬の顔であった。
今回は初めてアイホールではない場所での稽古のため、私も名古屋、東京と往復する日々が続いた。アイホールの初日。出演者全員がかなり緊張しているのがはっきりとわかる。ハデな動きもなく、淡々と進む内容、人間の内面の心理を伝える作品であるため、大げさな演技でごまかすことは許されない。特に「紙風船」の佳梯かこと趙方豪はほとんど動きもない演技である。案の上、公演が終わると全員が汗びっしょりで“空”の状態であった。
アイホール、愛知芸術文化センターの公演が終わり、2か月後の東京公演を残し、それぞれの仕事へ散った。東京公演は仕込みの2日前に全員が集合し、稽古を行うことになった。ザ・スズナリの酒井さんに取っていただいた稽古場は、本来なら芝居の稽古はできない場所である為、“岸田國士の朗読会”という看板で稽古を行った。「大丈夫、誰も来ないから」という酒井さんの言葉を信じ、本格的に稽古を行っていると、担当の係の方が来られた。全員いきなり座り込んで本を読む。“若者が平日の昼間に集まって岸田國士の朗読会をやっている”。その姿を想像し、笑いを我慢するのにひと苦労であった。プロデュース公演はいろいろな方々の寄合で飲むことも多く、賑やか過ぎる感じであるが、今回は岸田國士の作品同様に淡々と撤去が終わり、皆それぞれに名古屋へ大阪へと別れていった。ナビの芝居のように、あっけらかんとした終わり方だったが、そのことがこの企画の“静かな興奮”を物語っていた。
※アイホール5周年記念誌『出逢いの劇場』(1994年3月31日発行)より転載

津村卓(つむら・たかし)
情報誌「プレイガイドジャーナル」を皮切りに、扇町ミュージアムスクエアを立ち上げプロデューサーとして劇場人生がスタート。その後、AI・HALL、びわ湖ホール、北九州芸術劇場、長野県上田市サントミューゼのプロデューサーや館長、長野県芸術監督団プロデュース部門芸術監督を務める。現在は信州アーツカウンシル長、長野県立キッセイホール館長。1995年より(一財)地域創造プロデューサー。


