2026年3月閉館
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)
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AI・HALLプロデュースVol.2「花々の眠る部屋」津村卓

‘90年に伊丹市市制50周年を期して実施したアイホールプロデュースを翌年もひきつづき行うことになった。2作目ということもあって、かなり気持ちにも余裕を持つことができた。前回は作家、北村想の世界を創ることをテーマにプロデュースを行ったが、今回は南河内万歳一座の内藤裕敬の演出家としての世界を展開する事と、南河内万歳一座の河野洋一郎という“西日本で一番うまい役者”を主役にすることが企画のテーマであった。まず河野をくどき、その後、内藤に「お前しかいない」と内藤自身が「いや」と言えないようなシチュエーションを作った。肝心の作家は誰にするか? まず最初に考えたことは、プロデュース公演であり、東京公演もあるということだった。こういう企画では、間違っても内藤に「書いてくれ」とは言えない。そこで、内藤と相談の結果、渡辺えり子さんに書いていただこうということになった。河野以外の役者は、昨年のプロデュース公演で「オレは役者やー」という一言で目覚めた劇団☆新感線の枯暮修。同じく昨年に続き、出演してくれることになったブリキの自発団の山下千景、最後の舞台となった岡田朝子をはじめ、鴨鈴女、藤田辰也、保井健といった南河内万歳一座の役者陣、 劇団3〇〇の武発史郎、立身出世劇場の関秀人、そして東京で行われていた劇団3〇〇のプロデュース公演を観た時にこの公演の話を聞き、自ら名のり出てくれた元状況劇場の若手名女優・田中容子というほぼ同世代の顔ぶれになった。

内藤の演出と、この役者陣から“南河内万歳一座”の公演にならないことに、最も気を付けた。11月に入り、顔合わせから稽古は始まった。本は上がっていない。こうなると、稽古の内容は当然のように宴会の方に向かっていくことになる。内藤はいっこうに稽古らしいことは行おうとしない。本はほぼ完成に近いところまで上がってきており、役者陣に焦りの色が出始めている。当初、内藤との話で「ギリギリまで本を役者に渡さないこと、本を役者全員で時間をかけて読解する作業を行う」ということを取り決めていた。そして、11月の後半に入ると昼から深夜まで一気に立稽古が始まり、どんどん芝居が作られて行くことになる。本番の一週間前、初の通し稽古が行われた日、渡辺えり子さんとブリキの自発団の生田萬さんがアイホールへ来られ、通し稽古を観られた。えり子さんのタバコの量が増えるのを見て、まずいなぁと思っていたが、予想通り、後半に入るやえり子さんからダメが出た。作家・演出家・役者の間で激論が交わされたが、ひとまずここは落ち着いた。これを機に一気に本番へ向かっての緊張感が張りつめてきたが、役者達はまだ自分の役のことで四苦八苦の状態が続き、長時間の稽古が続けられた。万歳の役者から「こんなに稽古をしたのは初めてや」という声まで上がる程であった。仕込みに入り、アイホール演劇公演で初めての徹夜業を行い、初日の幕にはなんとか間に合った
年が明け、1月9日から東京公演に向けての稽古が始まった。内藤には珍しく、かなりの手直しを入れることになり、東京の仕込み前日まで稽古は続いた。東京公演の最も大変だったことと言えば、約1ケ月前にシードホールで公演を行ったリリパット・アーミーが公演の最後に客席に投げる恒例の”ちくわ”がなんと天井のトラスに一本残っており、腐ったそれが不幸にも仕込み中に落下した。袋が破裂し、超ド級の臭いが…。毎日、臭い消しのスプレーをまくことになった。この臭いは、体験した者にしかわからないであろう。そんな事件もあり、今回の東京公演では川上さんをはじめとするシードホールのみなさんにかなりの無理をお願いすることになり、申し訳なくただただ頭を下げるだけであった。とにかく、いい芝居をすることでお許しをいただくしかなかった。内藤裕敬の演出腕力、そして役者との関係性を作る技、河野洋一郎の我慢した演技、渡辺えり子さんの生まじめさー(実は作品の主人公が花屋の息子で、花によって作り出される人間の姿を描くため、本当に花屋を営んでいる河野洋一郎の家に、えり子さんは一泊し取材をした)。やはり最後の公演だったのかと思わせた岡田朝子の爆演、久々に存在感を見せてくれた田中容子など、役者・スタッフがものを創ることを真剣に楽しんでくれたような気がする。また、打ち上げでは東京の多くの劇団の人達が参加してくれ、盛り上がったものとなった。そのなかで最後まで残ってくれたのが小林薫さんだった。
最後に今回の公演で特筆すべきことは、南河内万歳一座の松下安良と扇町ミュージアムスクエアの前川房枝両名が制作に参加してくれたことである。彼らが劇団や劇場の垣根を越え、他のホールのプロデュース公演に参加するといった通常では考えられないことが実行できたことは、将来様々な場所の人たちが交流するプロデュース公演が拓かれる一つのきっかけになるような思いがした。この公演で、演劇は人と人が創り上げていくことだということを再確認できたと思っている。
※アイホール5周年記念誌『出逢いの劇場』(1994年3月31日発行)より転載

津村卓(つむら・たかし)
情報誌「プレイガイドジャーナル」を皮切りに、扇町ミュージアムスクエアを立ち上げプロデューサーとして劇場人生がスタート。その後、AI・HALL、びわ湖ホール、北九州芸術劇場、長野県上田市サントミューゼのプロデューサーや館長、長野県芸術監督団プロデュース部門芸術監督を務める。現在は信州アーツカウンシル長、長野県立キッセイホール館長。1995年より(一財)地域創造プロデューサー。


