2026年3月閉館
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)
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AI・HALLプロデュースVol.1「砂と星のあいだに」津村卓

伊丹市市制50周年を記念してアイホールでなにか自主企画が行えないかということからスタートしたアイホールプロデュース。が、この企画は、実はアイホールがオープンする前から計画されていたものである。小劇場演劇をホールの核とするアイホールは大阪の他の小劇場とは違ったスタンスの活動を行っていきたいという考えを当初から持っており、その中心にプロデュース公演があった。市制50周年ということで事業費が通年より少し多いということもあり、「よし、この期を逃してはならない」とばかりに温めていた企画を現実のものにするためスタートした。
扇町ミュージアムスクエアのプロデューサーをしていた頃から、もし将来プロデュース公演を行える時は北村想さんに本を頼もうと心に決めていた。いさんで、名古屋のプロジェクト・ナビの事務所を訪ねた私だが、想さんと顔を合わせた途端、話がなかなか切り出せない。
想さんに断られたら、このプロデュース公演は、白紙になる。その時は、いさぎよく別の企画を考えようと思っていたのだが、想さんは快く「いいよ」と答えてくれた。テーマは「空でお願いします」とお願いしたら、驚くことに、3週間後には本が届いた。「本の上りが早い北村想」の伝説は、本当であった。想さんも交え、小堀純氏と3人で役者選びの打合せ。まず主役の若い飛行士には新宿梁山泊の金守珍さん、隕石商人に劇団☆新感線の枯暮修、姉妹にブリキの自発団の山下千景と南河内万歳一座の岡田朝子と順に決まっていった。配役は本を読み、この人にやって欲しい、この人がピッタリだということを優先し、客寄せのことは考えず、いい作品を作ることを第一に進めた。最大の難関は老飛行士、何人か候補があがる中で、早稲田小劇場出身のベテラン、小田豊さんに了解を頂き、この作品が本格的にスタートを切ることになった。演出は、当時ちゃかぽこ調書を主宰していた洞口ゆずるに依頼した。誰もが驚いた抜擢ではあったが、関西において演出家と言われる人物は数少ない(自称演出家は多いのだが)。洞口に期待した。

作品の内容は、“砂漠と隕石のラブストーリー”である。「墜落は落ちるものと待ち受けるものとの間の愛の引力である」とは作者の想さんの弁。どこまで北村想のやさしい世界を表現できるであろうか。稽古はアイホールの2階にあるカルチャールームで約1ヶ月に渡って行うことが決まっている。9月17日、初顔合わせ。みんなが緊張している。特に大阪チームの緊張感は強い。そして、稽古初日が終わり、翌日の朝電話が鳴った。山下千景からであった。声が緊張している。「何やろ」と思っていると、「金さんが倒れて、深夜救急車で運ばれ、入院したんです」。頭に浮かんだのは金さんの体のことと「これでこの公演終わりや」。金さんは2日後に戻ってきた。病名は「膀胱結石」。石さえ動かなければ、超人金守珍は不死身である。その後、薬を飲みながらの金さんを中心に稽古は進んだ。が、役者、演出家はじめスタッフ全員が集団としての意志の伝達がうまくいかず、混成チームであるプロデュース公演の欠点が露出してしまっている感じだ。稽古場を初日のステージである名古屋に移動した後も、作品はうまく出来上がらない。そうこうしている間に、仕込みが始まった。
ところが、余程日頃の行いに問題のある人物がいるのか、本番前に台風の直撃を受けることになった。「だいじょうぶやで」という遊戯祭のスタッフも顔がひきつっている。会場は維新派が丸太とシートで作った特設会場、通称“タンク”。風が吹き出した。タンクを覆っているシートを外さなければタンクが倒れる。そして大雨。ついに水は会場へ流れ込み、約20cmの浸水。とにかく全員で水すくい。北村想、佳梯かこも腰下まで水に浸かって作業を行う。この時、リーダーシップを取り、作業を的確に進めたのが金守珍。さすがにテント出身者と皆、変な感心をしていた。本当に芝居はできるだろうか。そして幕が上がった。客が入り、照明が入ると、作品は何とか出来上がっていた。プロの役者の踏ん張りに感激した。その後、東京公演を済ませ、伊丹に戻り、全公演を終了した。打ち上げは想さんや佳梯かこさんも参加して頂き夜明けまで続いた。初めてのプロデュース公演。ホールが自らを表現することの重要な意味をとにかく成立させることができたのは、何よりアイホールスタッフの力である。近藤さん、稲澤さんをはじめとした伊丹市の職員の頑張りであったと思う。
「演劇は、表現するものと、劇場で待ちうけるものとの間の愛の引力である」―改めて想さんに言われたような気がした。
※アイホール5周年記念誌『出逢いの劇場』(1994年3月31日発行)より転載

津村卓(つむら・たかし)
情報誌「プレイガイドジャーナル」を皮切りに、扇町ミュージアムスクエアを立ち上げプロデューサーとして劇場人生がスタート。その後、AI・HALL、びわ湖ホール、北九州芸術劇場、長野県上田市サントミューゼのプロデューサーや館長、長野県芸術監督団プロデュース部門芸術監督を務める。現在は信州アーツカウンシル長、長野県立キッセイホール館長。1995年より(一財)地域創造プロデューサー。


