2026年3月閉館
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)
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「青年団とAI・HALL」平田オリザ

伊丹AI・HALLでの最初の青年団本公演は1994年の『S高原から』全国公演の途上。これが関西地区での初めての上演でもあった。その前年に、劇団は『ソウル市民』の韓国公演も実現しているので、よく言えば満を持して、悪く言えば後回しの関西初公演だった。記録として、そこまでの紆余曲折をまず書いておこうと思う。
私が初めてAI・HALLを訪れたのはおそらく1991年あたり。第2劇場さんを観たのではないかと思う。そのころ私はこまばアゴラ劇場の支配人として全国の劇団を見て回ることを仕事にしていた。

AI・HALLでの最初の上演体験は1993年。宮城聡さん率いるミヤギサトシショーから演出の依頼を受けての『蟹は横に歩く』という作品だった。戯曲は岸田戯曲賞を受賞したばかりの宮沢章夫さん。
そして翌94年正月に青年団プロデュースとして緑魔子さん主演の『思い出せない夢のいくつか』を上演。さらにこの年の9月、冒頭に記したように満を持しての『S高原から』の公演となった。
私たちの演劇が、まだ「静かな演劇」と呼ばれていた時代、岩松了さんからは関西公演にあたって「関西のお客さんは厳しいよ」と忠告を受けていた。東京乾電池が大きくスタイルを変えた作品を大阪市内の劇場で上演した際、笑いを求めにやってきた観客から終演後に「わからへーん」と声がかかったというのだ。結成からすでに十年経っていたとはいえ、ほぼほぼ無名だった私たちは、そこで、少しでも権威をつけてから関西公演に臨もうと考えた。東北を中心に旅公演を繰り返し、海外公演も実現してからAI・HALLでの上演となったのは、このような背景もある。

いまでは、その岩松さんが兵庫県立の劇団の代表となり、私が県立の大学の学長になっている。そしてAI・HALLは幕を閉じる。
縁あって私は、2006年からは大阪大学の教員となった。AI・HALLとは車で十分程度の距離だ。この時期、私は授業の合間に稽古に駆けつけ、あるいはAI・HALLでのワークショップの合間に講義を行っていた。
気がつけば私たちは、関西のどの劇団よりもAI・HALLで上演を行い、ありがたいことに青年団の公演を楽しみに待ってくださる固定ファンもついてきた。ここ数年は、「阪神間での次の上演はいつですか?」との問い合わせも多い。
マスコミ周りも、AI・HALLで上演するようになってから初めて経験した。当時、何故か青年団だけはダンスが専門の志賀玲子さんの担当だった。新聞各社を回った帰り道、志賀さんから「平田さんは、いつ頃から自分のことをアーティストと呼ぶようになりましたか?」と聞かれた。おそらくそんな演劇人は関西にはいなかったし、いや東京にもいなかったかもしれない。AI・HALLが真の公共劇場としての地位を獲得していく過程に同伴できたのは幸福だったと思う。志賀さんはいま、豊岡市の城崎国際アートセンターの館長に就任していただき、私は豊岡演劇祭のフェスティバルディレクターとなっている。そしてAI・HALLは幕を閉じる。
定点観測のようにJR伊丹駅周辺の発展も見てきた。その賑わいの創出にAI・HALLが果たした役割はきわめて大きかったはずだ。閉館を巡るシンポジウムの席で私は、「私たちアーティストはハーメルンの笛吹きなのか?」と問いかけた。役目が終われば放り出されるのが芸術家の宿命なら、老兵はそれも甘受するが、後進には申しわけなかったと今も感じている。


平田オリザ(ひらた・おりざ)
芸術文化観光専門職大学学長、青森県立美術館館長、劇作家・演出家・劇団青年団主宰。
1995 年『東京ノート』で第39 回岸田國士戯曲賞受賞。2006 年モンブラン国際文化賞受賞。2011 年フランス文化通信省より芸術文化勲章シュヴァリエ受勲。2019 年『日本文学盛衰史』で第22 回鶴屋南北戯曲賞受賞。
著書『寂しさへの処方箋 -芸術は社会的孤立を救うか-』『芸術立国論』(集英社新書)『わかりあえないことから』『演劇入門』『演技と演出』『下り坂をそろそろと下る』(以上、講談社現代新書)など


