2026年3月閉館
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)
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「高校生たちとアイホール」 五ノ井幹也


2001年の3月、僕は勤めていた尼崎北高校から伊丹西高校へ人生2度目の転勤をしてきた。前任校でもそれなりに活躍していたため、一部伊丹の高校生からは敵キャラが自分たちの平和な街へ殴り込んできたようなもので、拒絶反応を示す人もいたとか。申し訳ない。ただ僕にとってもAI・HALLがあるこの街は魅力的だったのだ。文学座や俳優座など、東京の大劇場芝居とゆかりの深い尼崎のピッコロシアターとは違い、桃園会、MONO、青年団、199Q太陽族など時代の先頭を走る小劇場の風を取り入れる窓のような場所がAI・HALLだった。次の時代を高校生たちと進むため、僕はその風に何としてでも乗ってみたかったのだ。
AI・HALLの中高生向けイベントは驚くべきものだった。先の時代を切り開く講師陣による年に数回の演技、台本、スタッフ講習会はもちろんのこと、最大のイベントであるアイフェスに向けてのサポートが高校演劇界の常識をはるかに超えて手厚かった。アイフェスを一つの公演だと考え、情宣チラシ作り、台本は上演のはるか手前で提出。スタッフ打合せは「何がしたいの?」との聞き取りから始まる言わば講習会であり、上演3週間前には実際に通し稽古をスタッフの前でお見せするカルチャールーム稽古。さらに究極は上演直前に行われる3時間に及ぶホールリハ。つまり搬入、位置決め、シュート、打ち込み、きっかけ稽古から実際に全ての段取りを上演のままに行うゲネプロまでがセットになった3時間。打合せ20分、位置決め打込み25分で一日6校が上演していく秋のコンクールとは別世界。夢のような世界は高校生たちを大きく成長させる。実際に高校卒業後、演劇に関わる進路に進んだ生徒も何人かうまれた。それ以上に一つの作品を創り上げるのに、どれだけ多くの人の力を一つにしなければならないかを、肌を通して学ぶことができた。面白い個人の集まりであった演劇部は、僕が伊丹西高校に在職する12年が過ぎるころには、まさにチームとよべるような集団に進化していった。

そんなホールリハを一度だけ完遂できなかった年がある。伊丹西からの転勤が既に決まっていた2013年3月のことである。その年、出演者である部員のお父さんが公演2日前にお亡くなりになった。とても舞台になんて立てないようなことがあったのに、彼女は劇場に現れた。翌日に備え発熱していた別の部員を強制退去させ、ホールリハではゲネプロをせずにキッカケ稽古となった。公演日に誰かが居ないってことは今まで積み上げてきた全てを無いものにしてしまう。大切なお父さんを失った上に、仲間と創り上げた世界まで失いたくなかったのかも。だからといって…。その時ほどたまらない気持ちにさせられたことはなかった。発熱部員の代役は卒業したばかりの先輩がつとめてくれた。全てを忘れてしまえば、外の嵐が聞こえない穏やかで幸せな時間がAI・HALLの中に流れていった。
伊丹西高校の生徒たちとの別れの作品はこうして幕を閉じた。ただ話はそこで終わらなかった。終演後に部員たちがホールスタッフさんからがっつり怒られたのだ。理由はこうだ。
1.他校の上演準備中、喋りながら小道具取りに行く事件
2.部長、下手袖中で上演中、消え物のパン完食事件
3.前日、たこ焼き材料の生卵、しまい忘れて帰る事件
4.段取りが悪く開場、2分押し事件
5.楽屋スタッフ用のお菓子、勝手に食べちゃった事件
6.準備不足の僕へのお別れサプライズ、舞監聞いてないぞ事件
やらかしすぎである。怒られながらも彼女らの緩さと生命力を感じたのも事実。ホールスタッフの、僕が抜けた後の「伊丹西高校の部員たちを何とかしなきゃ」って熱意を感じたのも事実。本当にありがたかった。僕たちはちゃんと愛され、向き合ってもらいながら精一杯舞台に立っていた。
こんな劇場との思い出は、今でも鮮明に蘇ってくる。ありがとうAI・HALL。そして関わってくださった皆さんありがとう。彼女たちは今も、それぞれの世界で逞しく生きています。そしてこれからも…。


五ノ井 幹也 (ごのい・みきや)
兵庫県立加古川東高校演劇部顧問。1964年神戸市生まれ。県立神戸高校演劇部出身。大阪教育大学入学と同時にピッコロ演劇学校1期へダブルスクール。そこで故・秋浜悟史氏と出会う。心に残る教えは「面白くないことはやっちゃいけません」。目からウロコがはがれる。1992年、兵庫県立尼崎北高校で演劇部顧問生活を開始。2000年夏、尼崎北高『好色十六歳男』で全国大会ベスト4+創作脚本賞。2011年度3月に伊丹西高『渦の中の私』で春季全国大会出場。2022年夏、県立伊丹高校『晴れの日、曇り通り雨』で顧問生活二度目の全国大会ベスト4+創作脚本賞。現在は、阪神地区を離れ、東播支部の活性化を目指して仲間と活動中。


